『夜葬師と霧の侯爵』を読んだ後の考察
喜怒哀楽といった感情があるのも、心があるのも、愛することができるのも、人間だけに備わった専売特許のように思われます。
ですが、一見心がないように思える生き物でも、愛情が感じられる瞬間があります。
それって、どういうことなんでしょうか?
例えば花です。
大事に世話をして育てたから、花たちが喜んでいる。
そう思える瞬間があります。
でもそれは、自分の愛に、花も答えてくれていると思い込みたいだけなのでしょうか?
そうではないように思います。
心や愛を生きとし生けるものすべてが、ちゃんとみんな持っている。
ですが、人間以外は、それを知ることがなく、ただ生まれてはただ死んでいくという自然の摂理を繰り返すだけの存在となってしまっているだけなのではないでしょうか?
秘められている想いに気づく可能性が高いのは、人と接することのできた生き物たちなのではないかと思うんです。
人から愛されて、もしくは人が人を愛するという場面を見ることによって、眠っていた心や愛が、目を覚まし、生き物たちの表層に現れてくるのではないかと思うんです。
人が生物たちの愛に気づき、それを言葉にすることによって、初めて愛情が芽生える、愛情に気づくことができるという見方でもいいのかもしれません。
先日、紹介した絵本の背表紙に、監修された東北大学の教授からのメッセージが書かれていたんですが、
絵本の読み聞かせ自体が、「脳の発達に重要な愛着形成」につながるということでした。
つまり、赤ちゃんは、愛してくれている人の言葉を聞くことによって、愛という概念を形成して、その概念を定着させているということになります。
誰かや何かを愛するという要素を持っていたとしても、それを学習し、育てなければいけないということになるのではないでしょうか。
たぶん、赤ちゃんが生まれて初めて学ぶのは、自分は母親から愛される存在だということ。
そして、自分も母親を愛していることを知ることなのかもしれません。
生あるかぎり、どんな存在も、単独では生きられません。
人だって、生涯、人に遭わずに過ごしたら、およそ人らしい生き方はできないでしょう。
短命に終わる可能性も高そうな感じがします。
本作に登場する「夜葬師」は、「心」を持たない存在です。
ですが、やっぱり「心」はあるんだと思うんです。
ただ、人が持っている「心」とは少し形が違うのと、「心」について説明する言葉がなかっただけなのではないかと思うんです。
言葉があるから、人は人らしく、生きることができます。
ですが、言葉があるから、うまく説明ができず、不器用に生きてしまうのもまた真理です。
登場人物たちの葛藤やジレンマ、それによって生じる矛盾を、最後にはちゃんと解消してしまう。
白川先生の描く世界に魅了されました。
夜葬師と霧の侯爵 かりそめ夫婦と迷宮の王
以前、銀灯師のお話を紹介しましたが、次は、夜葬師のお話です。
銀灯師の世界では、夜葬師は、悪の源であるかのように描かれていましたが、本作では夜葬師が主役となりました。
美しく優しく清らかな夜葬師:オフェリアと、呪われた侯爵:ルドヴィークのお話です。
ルドヴィークの呪いは、新月の晩に、身を割かれるような痛みと戦うというものでした。
これは、後宮の烏に影響を与えているように思います。
オフェリアは夜葬師という魔物のような存在に、森の中で育てられ大きくなりました。
夜葬師は心もないし、実態があるようでない存在でもあります。
だから人間のように暮らすことはなかったのでしょう。
よってそんな夜葬師に育てられたオフェリアは、人間らしい行動をおよそ知らないと見て間違いないでしょう。
そんなオフェリアの前に、ある日突然ルドヴィークが現れます。
オフェリアからすると、初めてまともに会話をして、普通に接することのできる人間だったと言っても過言はないでしょう。
生まれて初めて見たものを親と思って懐く雛と同じような感覚なんでしょうか。
オフェリアは自然とルドヴィークに惹かれていきます。
ルドヴィークも憎むべき存在のオフェリアをなぜか気にかけてしまいます。
次第に、自然の流れのように、運命のように心が惹かれあっていく二人がいました。
何度もしつこく書いていますが、白川作品には兄が付き物です。
今回は、どちらにも兄がいないのかと思っていたんですが、そうでもなかったようです。
肝心なところで、二人の呪いを説く鍵に導いてくれた人がいました。
やっぱり白川作品には兄が必要なんですね。