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『准教授・高槻彰良の推察5 生者は語り死者は踊る』澤村御影(著)を読んで、生者としての思慕の念について感想を書きました!⑤

イザナギのイザナミに対する思慕の念

イザナギ(男神)・イザナミ(女神)の2神は、日本神話では国造りの神として有名です。
詳しくは知らなくても名前くらいは耳にしたことがあるのではないでしょうか。

イザナミは、神生みの最後にヒノカグツチ(火の神)を生みますが、火の神を生んだことで、焼かれて亡くなってしまうのです。

妻を失って悲しんだイザナギは、妻に会いに黄泉の国に向かいます。
そして妻に、一緒に帰ってほしいと頼むのです。

妻は、「黄泉の国の神々に相談してみますが、決して私の姿を見ないでください」と言い、神々のもとへ行きました。

ところが、なかなか戻ってこない妻に痺れを切らしたイザナギは、約束を破って、妻の醜く腐った姿を見てしまうのです。

約束を破られ怒った妻は、鬼女の黄泉醜女(よもつしこめ)を使って、逃げるイザナギを追いかけます。

更に妻は、雷神と鬼の軍団・黄泉軍を送りこみますが、イザナギは何とか黄泉比良坂まで逃げのび、そこに生えていた桃の実を投げつけ、追手を退けることができました。

最後に妻自身が追いかけてきましたが、イザナギは千引の岩を黄泉比良坂に置いて道を塞ぎます。


閉ざされた妻は怒って「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫びました。
これに対してイザナギは「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて1日に1500の子を産ませよう」と返して黄泉比良坂を後にしました。

2人は離縁し、イザナギは桃の木を讃え、意富加牟豆美命の名を与えたとのことです。

大人になった今、このエピソードを考えてみると、、
女神イザナミは、、
黄泉の国では、生前の姿は影も形もなく、醜く変わり果てた姿を嘆き、夫には会いたくなかったし、このままの姿では一緒に帰りたくないという乙女心があったのだなと、思ったりもします。

ですが、そういう大人の事情とか恋や愛といった機微を知らなかった頃、つまり私が子供の頃に、この神話を初めて聞いた時の感想は、全然違ったものでした。

生きていた頃は家族として、ずっと一緒にいたのに、死んでしまったら家族にはもう会いたくないのだろうか?
せっかく旦那さんが迎えに来てくれたのに、うれしそうでもないし、約束を破ったのは駄目だけど、追いかけて襲おうとするほど、家族だった人を憎めるのだろうか?

子供だった私は、女神イザナミが怖くなり、同時に悲しくもなり、もうこの話は聞きたくないなと思った記憶があります。

生きている人は、大切な人が亡くなると、どうしょうもない喪失感に打ちのめされることになります。

もしかしたら、亡くなった人は何も思わないのかもしれません。
でも、生きている人は、残りの人生をかけて、亡くなった人を思い続けるのです。
徐々に忘れていくという罪悪感と戦いながら。

だからなのでしょうか。
亡くなった人からも、同じように思われ続けていると信じたいのかもしれません。
同じように愛されていると思い込むことで、生きていくことができるのかもしれません。

男神イザナギも、そう思ったから、禁忌を犯して、妻を迎えに行ったのではないでしょうか。

亡くなった人は何も答えてくれないし、意味のない行為かも知れないと、頭のどこかではわかっていても、やっぱり、お盆や命日を大切にする。

それは、どんなに科学が世界を進化させても、変わりません。
頭でなく、心で感じる想いを大切にする文化が人にはあるのではないでしょうか。

前に別の本の感想でも書きましたが、
生きている人には、思い出が必要なのです。
一緒に共有した思い出や、亡くなった人の残した足跡が、残されたものには必要です。
残された人が生きるために、必要なものです。

本巻を読むと、百物語や怪談話が、どうしてこの世に生まれたのかの本当の意味に気付きます。

亡くなった人への思慕の念が作り出した夢物語が、いつしか怪談となってしまったのです。
人が人を思う生き物だからこそ生まれた文化であり、人はみな本質的に優しい生き物だからこそ、古来から続けられている習わしを守るのかもしれません。

本巻はただのオカルト系の物語を楽しむだけの作品ではありません。
彰良の優しさは、つまり澤村先生の優しさでもあるのでしょう。
奥の深い部分で、魂が何かに触れるような感覚を、ぜひ味わってみてください。

准教授・高槻彰良の推察5 生者は語り死者は踊る

第1章 百物語の夜
人の嘘を聞き分けるという能力を持ってしまった尚哉は、「孤独」になるという呪いにかけられ、そこから抜け出せないと思い込んで生きてきました。

ですが、大学に入り、彰良や難波と出会ったことで、徐々に孤独ではなくなってきています。
呪いは呪われていると思ってしまったら最後、そこから抜け出すことはできない。
そんな解釈も、以前までの巻ではありましたが、そのジンクスをくつがえし始めているようにも見えるのです。

実際、尚哉は積極的に動けるようになってきたとも思います。
自分から、誰かと関わってもいいと思い始めているようにも感じます。

嘘を聞き分ける能力も、ただ放置するのではなく、ちゃんと向き合って対処しようとしています。

何でも諦めていた尚哉が、諦める前に、意味のあることをやってみようとしています。
諦めるのはいつだってできる。
やってみて駄目なら諦めればいい。
意味のないことでも、きっと意味はある。
そんな意気込みが、尚哉から聞こえてきそうです。

人に流されるのではなく、自分の意思を強く持って立ち上がろうとする尚哉を応援したくなります。

第2章 死者の祭
いよいよ、尚哉が子供の頃体験した祭の調査が始まりました。
尚哉が過去に体験したものは、間違いなく本物の怪異です。

尚哉の祖母が住んでいた長野の小山村には、
表の盆踊り(赤提灯:生者の祭)、裏の盆踊り(青提灯:死者の祭)がありました。

この2つの盆踊りは、同じ日に行われます。
表の盆踊りは夜8時頃終了して、その後、提灯のかけ替えが済むと、裏の盆踊りが始まります。

読んでいて単純に思ったのは、どうして同じ日にやるのか?
という疑問でした。
子供が狙われているようだということが分かってきた時点で、表の盆踊りを別日にするとか、死者の祭の日には、子供を村から追い払うとか、方法はいくらでもありそうです。

表の盆踊りがあるから、子供は村に集まるし、何かのちょっとしたきっかけで、死者の祭に招かれてしまうわけです。

日本人の伝統を重んじるという古き良き美徳が、あだになったケースなのかなと思います。

良いことにでも悪いことでも、これまでやってきた風習や習慣をやめるという決断が、どうしても日本人にはできない。
そんな習性があるように思います。

時代が進化しても、やっぱりやめられないものはあるのです。
やめてはいけないものもあるのです。

尚哉は、20歳になりました。
子供時代が終わり、大人になります。
だからこそ過去と向き合う時間が必要だったのではないか、とも思えるのです。

【extra】マシュマロココアの王子様
瑠衣子が主人公のショートストーリーです。
瑠衣子の中にある彰良の思いは、胸の中に、ぽわんとあたたかな明かりが灯るような気持ちで、説明するのが難しいものだと本人が思っています。

でもそれって、読んでいる読者からすれば、十分、恋だと思うんですよね。

イケメンすぎて恋愛の対象にならない!
そう思い込もうとしている時点ですでに、恋に落ちていると考えるべきです。

読者としては、こういうふんわりした関係もまた、それはそれで楽しめるのですが、ちょっとだけ残念でもあります。