最近の推理小説事情
推理小説とは、もともとは、読者が推理を楽しむものでした。
つまり読者が、Who How Why=「誰が殺ったのか? どう殺ったのか? なぜ殺ったのか?」を、探偵役となって解いていく。読者が謎を解く過程を楽しめるように、物語は描かれていました。
ですが、最近の推理小説はどうでしょうか?
推理は作中の探偵役にお任せして、読者をどれだけ驚かせることができるのか、どれだけ未知の展開に持っていくことができるのか、そんな勝負をしているような感じがします。
作中では、突拍子もない展開が繰り広げられていて、読者が推理することなんて到底無理な代物に仕上がっているんです。犯人は直感でしか当てられません。
相沢沙呼先生も、『invert 城塚翡翠倒叙集』(講談社 2021/7/7)の作中でおっしゃっています。
推理小説はもはや、推理を楽しむものではなく、びっくり驚く、予測不可能小説になってしまったということになるようです。
それに気づいても、いつの間にか、この状況を受け入れている自分がいました。
どういうことかというと、Who How Whyの推理をするという信念を、頭が放棄してしまったということです。
これもある意味において、時代とともに変化した結果ということなのかもしれません。
よく言いますよね、今は、もうそんな時代じゃないって。
新たに受け入れるべき時代の産物なのでしょう。
物語の結末や犯人は、ネットで調べれば、読む前からすでに知ることができる時代です。
ですが、びっくりする要素の詳細まで、ネットで調べられるかというと、それはさすがに無理な話です。
読者側の構え方は変化しました。
皆、騙されたい、裏切られたいと思いながら小説を読むようになりました。
そしてそれが、人気度の基準となる時代に変化しました。
もちろん私も今やすっかり、その虜となってしまいました。
「深淵」探し
フリードリヒ・ニーチェ(ドイツの古典文献学者、哲学者)の有名な名言があります。
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物にならないよう心構えをしなければならない。おまえが深淵をのぞく時、同様に深淵もまたおまえをのぞき返している。というような意味の名言です。
例えばアメリカの有名なドラマで『クリミナルマインド』というクライムサスペンスがあるんですが、作中で何度か、この名言を引用しています。
同様に、様々な作家先生が、それぞれの小説のなかで、この名言の考えを引用しているように思うんです。
なので、小説とくに、犯罪が起こる小説を読む際には、「深淵」という言葉が使われているかどうかを、密かに探しながら読むようにしています。
自分が小説家だったとしたら、やはり、一番思い入れのあるキャラクターに、絶妙のタイミングで使用したいと考えるからです。